ハンドクリーム

ビルの額縁から少しだけ顔をのぞかせてみせた冬の太陽が、枯れかかった街路樹を裏側から照らし、まだ緑色をした葉がついてることを教えてくれる。

茶色から緑へのグラデーションが一つ一つの葉にあり、遠巻きに見るとモザイク画になる。

その絵を見ているのはわたしだけで、わたしの前を歩く人、右側に並列している人、左側をすれ違う人、後ろで歩調を合わせる人は、地面のタイル模様の方が好みらしい。

灰色はあまり趣味じゃないなと思いながらも、同じ絵を見ることができることは、羨ましい。

雑踏をかき分け、マフラーにこもる湿気を携えて、自分の勤め先のあるビルに入った。

社員証をゲートに優しく添えると、勢いよく侵入防止の扉が開く。

廊下を超え、雑多なエレベーターホールでもみくちゃにされ、13階でおりまーす!と言って降りて、自席に着く。

まだフロアは人がまばらで、柔らかくなった日の光が、過剰に整頓された蛍光灯の代わりにまどから差し込んでいる。

わたしはマフラーをほどいて、コートをかけて、カバンを机の下に置き、パソコンのスイッチを入れて、引き出しを開けた。

シトラスの香りがするハンドクリームを取り出す。

キャップをくるくるっと回して外し、お腹をぐっと押すと、白くてかてかしたクリームが手のひらにのる。

それを両手の手のひらで伸ばし、指、指の間、手の甲とその範囲を広げていく。

クリームと同じようにわたしの手も光沢をたたえ、優しくシトラスの香りがわたしの鼻腔の奥の奥まで刺激する。

クリームはものの数分で肌になじみ、脂ぎった感触はなく、艶もほどほどにしっとりしていた。

わたしはインスタントコーヒーの粉とマグカップを両手に持ち、給湯室に向かった。

マグカップにステンレスのスプーンでコーヒの粉を一杯入れて、お湯を注ぐ。立ち上る湯気とコーヒーの香りがメガネを曇らせたが、給湯室に入ってきたのは同期の真奈美であることはすぐにわかった。

梨花、おはよう〜」

「おはよう、真奈美。今日早いんだね。」

「流石に3日連続で遅刻しちゃったからなぁ。」

あくびが言葉の説得力を奪っていった。

「なんかいい匂いする。」

「ハンドクリームじゃない?昨日から使ってるの。」

どれどれと真奈美はわたしの手を手に取り、鼻に近づけた。

「これシトラス?」

「そう、この季節は必須だよね。洗い物しちゃうとすぐカサカサになっちゃう。」

その言葉を途中まで聞いた真奈美は、口角をあげて、にやっとし始めていた。わたしが言い終わる頃には、さもわたしが大切な宝物かのようなうるうるした瞳を強調していた。

梨花、ゴム手袋よ。素手でお皿洗いしたら、肌荒れすごくない?」

「まあ、ねえ。すごいかなぁ?」

「ときどき粉吹いてる梨花の手、あたし見たことあるよ。」

「うそー!ショック……」

「手袋しなくちゃ。ね?」

真奈美との会話もほどほどに、わたしは自席に座った。熱いマグカップに唇を添えて、コーヒをすする。

二口目をすすった瞬間、艶のあるわたしの指からマグカップがすり抜け、机の上に落ちた。

真っ黒だったコーヒーは、机の上で茶色に薄まり、近くにあったメモ用紙を染めた。

しばらく机の上で広がったコーヒーを眺めた。とても綺麗な茶色だった。

結婚記念日

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唐突ですが、明後日は結婚記念日です。

正確には、結婚式を挙げた日が去年の9月18日です。

だからと言って何か特別なことがあるわけでもありません。毎日のうちの、ある1日以上でも以下でもありません。9月18日も、他の日と同じ、大事な1日です。

ただ何もしないのは味気ないと思い、今月に入ってから妻と何をしようか考えていました。

最初は金沢の温泉に行こうとなりました。でも、9月に温泉ってちょっと暑くない?となりました。

一昨年の12月、妻と城崎に行ったことがあります。熱めの温泉に温められた身体を、冷たい夜風が撫でる、あの心地よさは今年も冬にとっておこうとなったのです。

あれやこれやと探していたのですが、なかなかコレだ!というものはみつかりません。私たちは車を持っていないので、いいなぁと思う場所は限られてしまいます。

そこで、近所にあって、お値段のはるホテルなんかに泊まっちゃおうとなりました。

遠出する旅費を、宿泊費に充てようという魂胆です。

神戸に住んでいるので、高級なホテルは割とたくさんあります。

ただベイエリアは、休日によく近くのショッピングモールに買い物に行ったり、レストランで食事をしたりしているので、あまり特別な感じはありません。

ホテルのサイトに掲載されている写真を見ても、基本的には月に一回は見る風景の、ちょっと視点が高いものです。

やっと見つけたホテルは、あの有名な北野ホテル。

www.kobe-kitanohotel.co.jp

思い切って、プレジデンシャルツインなる部屋を予約しました。プレジデンシャルの意味は分かりませんが、一人一泊およそ3万円です。

日頃安い八百屋と魚屋で食費を削ることに邁進している私たちは、久しぶりの贅沢に心躍らせていました。

ふかふかのベッド、弾ける草花、舌が踊るような料理。先週から、毎晩楽しみやな〜と寝床できゃっきゃしてました。

しかし台風。

雨風吹き荒ぶ中、近くの高級ホテルにずぶ濡れになって何をしに行くんだと、私たちは急に冷めてしまいました。

水曜のうちに泣く泣くキャンセルし、おかげで明日と明後日は何の予定もありません。

今は、元町にエステに来た妻についてきて、暇なので近くのブックオフ小林秀雄の考えるヒントを300円ほどで買って、スタバでホットコーヒーをすすりながら、それにも飽きてこうやってブログを書いているわけです。

そういえば、去年の9月18日も台風でした。

テルテル坊主を一人一つずつ作って、雨降りませんように!と祈りながら寝床について、起きたら雨でした。

1週間前の天気予報では直撃でしたが、テルテル坊主のおかげかどうか、直撃だけは避けました。雨でしたけど。

結果、当日外で予定してたバルーンリリースはキャンセル、フラワーシャワーは化粧天井の下で、ブーケトスはロビーですることに。

でも楽しかったなあ。

式を挙げる前までは、正直結婚式にメリットを感じていませんでした。

高額な費用を支払ってまで人様にキスを見せて、信じてもいない神に対して愛を誓い、一人一万円近い高級な食事を職場の上司と両親が同席して食べるのか。

色々腑に落ちないことがあったものの、妻のウェディングドレスを着たい気持ちは無視できず、挙式をすることにしました。

準備は3,4か月ほどかかりました。招待状のあて名を書いたり、昔の写真を整理したり・・・

そのうち、私はいろんな人に支えられながら生きてきたんだなあと、月並みなことを思うようになりました。

そして迎えた当日は雨でしたが、会社の同僚、大学の同期、親戚などいろんな人がいました。それだけでうれしく、幸せに思えたのです。

「ここにいてもいいんだ、ここにいるべきなんだ」と思える瞬間が、幸福なのかもしれません。

それはイイね!の数が多ければ多いほど膨れ上がる安っぽい承認欲求なんかではなく、自発的な感情で、何の見返りもなく、ただひたすら与え続けるようなものだと感じました。

ちなみに当日台風だったくだりからここまでは、日をまたいでお昼ご飯を食べて、特売の日に買った冷凍食品のハンバーグをつまみに、発泡酒を飲みながら書いてます。

台風が来てなければ、さっきお昼前に立ち寄った魚屋さんで刺身用のぶりを大量に買うこともなく、お昼に明太子パスタソースにゆでたパスタを和えただけのランチになることもなく、オシャレに北野散歩をしてたのでしょう。

異人館とか立ち寄っちゃったり、一口で終わるやんけと突っ込みたくなりようなパスタに(まずスマホで写真をとってから)舌鼓を打ち、アジア圏から来たのであろう観光客のバスに手を振りながら、ホテルでまったりしたのでしょう。

いま妻は3人掛けのソファで寝息を立てています。

ここまで書いてたらビールもあと少しに、ハンバーグも5つあったのにあと一つしかありません。

でもこれでいいんです。私たちはここに存在していいんだし、存在していなくちゃいけない。

妻にタオルケットをかけ、洗い物をすまし、ディスプレイに向かい合って、この幸せを少しでも書き留めようとしているのです。

そんなこんなでハンバーグがなくなってしまいました。ビールもあと一口。

コンビニまで買いに行こうかな。

ああ、眠たくなってきたなあ。

屋根裏部屋

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気がつくと屋根裏部屋にいた。天井が斜めなので、きっとそうなんだろう。

この部屋に来る前、どこで何をしていたのか全く思い出せない。思い出して何かしたい、納得したいことも特になかったので、この部屋にいることを受け入れていた。

窓は外側に開いており、風と少しの枯葉が入ってくる。

赤やオレンジや黄色に染まった背丈の大きな木が、玄関と思しきスペースを挟んで並んでおり、間から見える向こうは牧場のようだった。

犬が吠え、からんからんと大きめの鈴が遠くの方で鳴る。

私は自分の身の回りを見回した。

床は畳が敷いてあり、窓から日が差し込むとこは特に色あせていたが、部屋の中はかすかにい草の香りが漂う。

部屋の中から窓の外を眺める。暖色の木の葉と空が空気までほんのり温めているようで、産毛と皮膚の間にふわっとした空気をとりこむ。

体がふわっと浮いた気持ちになって、部屋から出てこの赤い暖色の世界に溶け込みたいという欲求が、毛穴から噴き出してきた。

振り返り、まずこの屋根裏部屋から出ることが先決だろうと、部屋を歩き回った。

そう時間のかからないうちに、この部屋にそれらしい出入り口がないことが分かった。

なぜ入ってきたのかは考えず、何とかして出ようと、部屋の隅に置いてある文庫本の束をどかしながら、何か探した。

文庫本は20年ほど前に出版されたものが多く全体的に日焼けして黄ばんでいるものが多い。

部屋の隅から壁にそって文庫本をどかし、もう一方の隅にたどり着いた。

その隅には小さな箪笥があり、動かそうとしても小さい割にしっかりとしたものらしく、びくともしない。

仕方なしに引き出しを下から順に確認した。

一番下と真ん中の段には何もはいいて泣く、一番上の段には古い通貨と紙幣があった。

昔学校で歴史の教科書で習ったような、小判も置いてある。また外国のものと思われる紙幣もあった。

種類も豊富だったが、その量も多かった。いくつもの札束が、引き出しの中に整然と並んでいて、傷やこすれた跡があるものも多いが、埃一つなく清潔に保たれている。

しかし、私が知りうる限りの現在使える紙幣や硬貨は一つも見当たらなかった。

引き出しを出したまま、その隣へ視線をうつす。

そこには子紫色の小さな座布団と、その上に木の箱が置いてある。

箱は片手に収まる大きさで、蓋は乗っかっているだけで鍵はされていない。

分からないものは理解したくなるし、何かの納得が欲しい気持ちが抑えられず、ふたを開けてしまった。

中から何か出てくることを、頭の隅では期待していたが、中には何も入ってないように見えた。

ふたを閉め、箱をもとあった位置に戻した。

腰を落とし、手を後ろにやり支える格好で、いったん自分が置かれている状況を整理した。屋根裏部屋と思しき部屋にいて、建物の中へ通じる出入り口はない。窓は空いているが、3階以上はありそうだ。

窓から下りることが一番現実的な案のように思えたが、綱状のものは何もないので、一番最後に取っておくことにした。

手に何か軽いものが乗った。

黒い固そうな外骨格に守られた、俊敏な虫だった。頭がそれを何か判断する前に、身体がそれを払いのけた。

ぽとっと床に落ちたそれは、身体のわりに頼りのなさそうな6本の足をバタバタと暴れさせながら、くるっ体勢を立て直し、部屋の隅に逃げ込んだ。

しばし呆然とした私は、この部屋を出ることよりも、不愉快なその虫をを駆除することが、何よりも優先しなくてはいけないことになった。

先程確認した文庫本の束から、汚れが最もひどそうで、重量がありそうなものを一つ選び、虫が逃げ込んだ部屋の隅に近づく。

音をたてないように、指の先から接地しながら、一歩ずつ足の動きを頭で把握しながら踏み出していく。

部屋の隅は、壁が一部古くなっていて、ゴルフボールが何とか収まりそうな穴が開いている。

奴はここから出てきたのだろう。そう思った途端、穴から一斉に彼らが出てきた。

私は文庫本をやたらめったらに振り回した。あらかた振り払ったが、数匹は私の体を這い上がってくる。

来ていた服を脱ぎ、その数匹も払い落とす。体中の毛穴が、警戒して塞ぎきる。

身体から出ていった彼らは、脱ぎ捨てた私の服にまとわりついていた。

ぼうっとそれを見ていた。

もう一度腰を下ろした。タバコを吸いたくなった。

列車

定期的に刻むリズムに合わせて、座席は揺れていました。

車内は過剰に明るい蛍光灯で照らされ、時折弱々しく消えそうになっていることが、視界に入ってくる光の量でわかります。

窓はありません。

ぼくたちは作業台の前に座っていて、一つの台に4人座り、手は膝か腿の上に、近くの人と何かおしゃべりをする訳でもなく、じっと台の上の板を見つめていました。

板は大人の手のひらほどの大きさがあり、厚さは5ミリほどしかありません。細かな穴がたくさん空いていて、作業台の溝に立てられています。

前側に向かい合って座っている人が、視界の端に映りました。

ぼくと同じ丸刈りですが、顔付きから女の子でしょうか。歳は同じぐらい、十代後半あたり。

列車が揺れるたび、ぼくらは一様に振動しました。意思を持って動くものは、何一つなかったように思えます。

前の方から、重たそうな金属製のものが引きずられる高い摩擦の音がし、そちらの方に目線が吸い寄せられました。

その後に続くこつこつと床を叩く音に、視線を目の前に縛り付けられます。

「全員、起立!」

考える間も無く、身体が跳ね上がり、全員ぼくと同じような反応をしてみせました。

「今日はワイヤー貫通作業一人500枚!作業手順は作業台の下に各人一部づつ用意してある!」

こつこつしながら、声の主はこちらに近づいているようで、声の高さからして、おそらく女性だと思います。

「作業が終わったら作業台下にあるボタンを押すこと!そうすれば追加の板が配給される!」

女性が視界の端に現れました。暗い緑色の襟付きの服に三角の装飾が施してあって、ブーツは膝下までありました。

「ではこれから作業を始める!各自着席!」

またぴくっと身体が動き、席に座わりました。目の前にはいつの間にかワイヤーがありました。

「c14車両員、作業始め!」

右手でワイヤーを乱暴につかんで、腰を曲げて、板の穴たちに目線を合わせます。

一番右端の、一番上の穴の、奥側からワイヤーを通し、手前にきたワイヤーを少し曲げて、次の穴にまた通します。

ワイヤーは力を入れることなく簡単に曲がり、次々と穴に通されてゆきました。

ぼくは無心になってワイヤーを穴に通しました。さっきまで気になっていた照明の明るさやボロ切れみたいな服や、目の前の女の子であろう人のことも、気にならなくなっていました。

夢中になって時間の感覚が薄れてしまったころに、急に後ろの方で鋭い音が走りました。

「おいお前!なぜ手を動かさない!」

三角装飾の女が怒鳴る声が聞こえました。

後ろで起こっている出来事を見たくなって、手が一瞬止まってしまいました。視線が板から徐々に外れて、まるで大きな力で首をねじられているようでした。

「だめよ、手を止めちゃ。」

前の方から声が聞こえました。声の力はとても強く、後ろを向きそうだったぼくを一瞬で前に向かせます。

「あなたもぶたれちゃう。だから手を止めないで。」

やはり前の子は女の子でした。目が大きく、潤んでいます。

ぼくはありがとうの意味をこめて、こくっとうなずき、板に視線を戻し、ワイヤーを通し続けました。

「だっておかしいだろう!みんな坊主にして、こんな雑巾みたい服着せられて!

だいたい板に穴を通したから何だっていうんだ!何の意味があるんだよ!」

ここまで聞こえましたが、続きの言葉はまたピシッという鋭い音に阻まれて、聞こえなくなってしまいました。

しばらくして、ずるずると引きずられている音がして、三角装飾の女が誰かに指示を出しているような声が聞こえましたが、内容までは聞きとれませんでした。

がたんと列車が揺れて、同じ頭をしたぼくらも揺れて、みんなでワイヤーを穴に通している。

みな次々にボタンを押し、新しい板をもらって作業を進めています。

ぼくも最後の穴にワイヤーを通しきったので、ボタンを押そうとしました。

そのとき一段と列車が強く揺れたのです。

役所にて。

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太陽が人間を刺す季節、私は区役所への道ながら止めどない汗を下着に吸わせて歩いている。

さっき地下鉄であった男はどうなっただろう。

尻を触られたと思って、腕を掴み大声をあげた。電車の乗客が一斉にこちらを向く様は、ほのかに私を紅潮させた。

不快感と恐怖が一瞬のうちに怒りと万能感に移り変わり、まるで電車の中の王であった。

私が声を出せば周りがそれに共鳴し、より大きな音を出す。

男がホームで駅員に連れていかれ、事務所の中でうなだれているその様は、まさに屈服した異教徒のようで、この上ない優越感と征服感で、私の中は満ち満ちていた。

しかし地下から地上に出ると、太陽光が真上から余りに直線な光を落とし、建物や行き交う自動車、道路や電信柱までもその光に包まれていた。

私の意志にかかわらず、汗が噴き出してくる。ほとんど風のない晴天の大通り、申し訳程度に植えられている木の影が唯一光から逃れられる場所だったが、すでに蝉たちが先に占領している。

区役所に私は向かっている。人生で最も退屈な途中道の一つだろう。

大通りから2本路地に入り、小学校の前を通り、交差点を左に曲がり、ひときわ角ばった建物が見えてくる。

周りの民家や雑居ビルに比べると、一部ガラス張りになったその壁は、透明すぎる。

自動ドアが二つ開く。必ず二段階になっており、真ん中にはこの晴天には似つかない傘立てが影を薄くして配置されていた。

平日の午前中、世間様が一番大人しく、各人が自らの作業に勤しんでいる時間帯なのだからか、人はまばらですぐに受付に行ける。

「あっ、すいません、住民票を頂きたいのですが。」

「はい、住民票の写しですね。ご本人様を確認できるものは、お持ちでしょうか?」

するりと流れるような、摩擦のない口調でやんわりと訂正された。バッグの中から、免許証を取り出す。

「これでお願いします。」

「はい、かしこまりました。では、こちらの用紙に必要事項を記入して、提出して頂けますか?」

頼まれて断ったらどうなるのだろうなど、つまらない想像が一瞬よぎったが、口角だけあげた愛想笑いでその想像を消し、用紙を受け取り、記入用のテーブルに向かった。

明らかに安いとわかるボールペンを手に取り、用紙に住所や氏名を書き込む。

右手の痺れのせいで、まだ上手く字を書けないが、なんとか全て記入した。

「書き終わりました。」

「ありがとうございます。そちらのカウンターでお渡しさせて頂きますので、少々お待ちください。」

受け取り専用の窓口と向かい合うように配置された長椅子に腰をかける。足を組むと隣の男性の視線ので、スカートからのぞく足がじりっと焼けた。

それにしても役所の中はがらんとしており、私と隣の男性、受付カウンターで噛み合わない会話を相手のせいにして、怒鳴りながらも笑みがこぼれている老婆の3人ほどしかいない。

しかしカウンターの向こう側は忙しそうに職員が働いている。プリンターは休む間も無く稼働し、吐き出される紙はありとあらゆる人間が回収していく。

ある紙がプリンターから出力されたと思いきや、女性職員がすぐさまそれを回収し、所定の箱に投入する。

しばらくすると別の男性職員が先ほどの紙を箱から回収し、ささっと何かペンで書き込み別の人(おそらく上司であろう)に伺いを立てている。

私はその間静かな時間を過ごした。平和な世界というのは、こうして作られるのだろう。

「タナカさん、タナカユウさん。」

名前が呼ばれたので、受け取り窓口まで向かう。相変わらず隣の男性の視線は私から外れなかった。

「こちら、住民票の写しですね。300円になります。」

小銭を渡し、封筒に入れられた住民票を受け取る。

「どうもありがとう。」

「ありがとうございました。」

さっと封筒をカバンの中に入れ、入ってきた二重の自動ドアに向かい、外に出た。

相変わらず外は太陽の光で溢れており、その暑さは影にいても空気を通して肌に伝わる。

頭がクラクラする。視界も揺れる。

胸元のボタンを一つ外し、身体の表面に新鮮な空気を送り込む。外に出た途端に滲み出した汗が気化し、身体から熱が奪われていく。

私はもと来た道とは反対方向の、建物の裏側に回り込んだ。

そこは影になっており、またガラス張りでもなく無機質なコンクリートの壁がただ立っている。

民家やビルもなく、ちょつとした通路にはなっているものの、裏山がすぐ迫っている。

地面と壁の接点に、雑草がちらほらと生えていた。

周囲を見渡し、誰もいないこと、誰もこないこと、誰も見ていないことを確認した。

スカートを捲り上げ、パンツを下ろす。

雑草に向かって放尿した。こういうときは男に生まれて良かったと思う。

声が高いせいで、格好次第で男にも女にも見られる。この特徴のせいでずいぶん悩んだが、今ではこの上ない才能に思える。

私の尿を受けて、雑草が雫を光らせている。

目の前のコンクリート壁がどろりと溶けていくような気がした。全身に弱い電流が走り、いっそう肌が敏感になってゆく。

全て出し切り、身体が震える。さっと服装を整え、また歩き出した。

帰りは少し買い物をして、商店街を通って別の駅から帰ろう。できるだけ日陰を歩こう。

小学校の交差点で、来た方向とは違う方向に進んだ。歩道の幅の狭さがやたらと気になった。

読書って人生の役に立つんですか?

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はじめに

金曜日の昼休み、明日から休日ということに既に仕事に手がつかなくなっているところに、こんなニュースが。

そういえばちょっと前に「小説を読む楽しさ」みたいなタイトルでブログ書いたなぁと。

inouek.hatenablog.jp

人生の役に立つんですか?と問う人に対して、何かしらのメリットを訴えることは、決して無意味じゃないし、ある程度の効果も見込めると思います。

でも、「読書って人生の役に立つんですか?」って問う人は、本当にこのお題通りの疑問を、ただ疑問として思っているのか?答える側も、問う側の人が聞きたいことを的確に答えられているのか?に関して、考えたいなぁと思いました。

価値とは何か

役に立つのか?という問いなんで、まず価値があることについて考えたいと思います。

以前、こんなブログを書きました。

inouek.hatenablog.jp

くまのプーさん エチケットブック」から、価値とは何か?について考えました。

この議論を今回も踏襲します。

前提として、人間は主観でしか物事を捉えることしかできず、カントの言うところの物自体は分からない、をここでは正とします。

すると、「〇〇ってイイよね!(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎」とか「△△は有意義だと思う(・ω・)ノ」とかは、客観性を持たず、あくまで私個人の意見だけど、というのが文の最初にカッコ書きでついてくることになります。

つまり、価値があることは、肯定的な判断そのものであるとなり、主観的な判断次第で「いいなあ」と思ってたことが次の瞬間「なんだこれ?」となってしまうことも、往々にしてある得る話、ということになります。

原因論と目的論

またここで「原因論と目的論」についてもこの議論の中で使いたいと思います。

原因論と目的論の話は、少し前にベストセラーにもなった「嫌われる勇気」にもアドラー心理学における重要なテーマとして挙げられています。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

原因論とは、Aという事象が起きた原因を、過去に起きた事BやCという事象に求めるもので、「AはBやCがあったからこそ起こったんだ!」となります。

嫌われる勇気の中で例を挙げていたので引用しましょう。

ある青年がお店でコーヒーを飲んでいたところ、店員がコーヒーをこぼしてしまいました。こぼれたコーヒーは、青年の一張羅のジャケットにかかってしまいました。青年は普段はおとなしい性格のようでしたが、この時は以下来で我を忘れて店員を大声で怒鳴りつけました。

まとめるとこうなります。

「店員がコーヒーをこぼし、一張羅のジャケットが汚れてしまった」→「怒りの感情が湧いた」→「店員を怒鳴りつけた」

ごく自然な流れに見えます。自分の大事なものを汚されたり壊されたりすると、怒りの感情が湧いてくる人が大半でしょう。

では目的論ではどう捉えるのでしょうか?

目的論はAという事象が起こったとき、その目的を重要視し、過去に起こったBやCには関心がありません。Aという事象は自分自身が起こしたものだとし、なぜAを起こしたのか、その目的を自分に問います。

原因論の例を引用すると、大事なものが汚されたから怒りの感情が湧いて店員を怒鳴りつけたのではなく、怒鳴りたいから怒りの感情を使い、店員がジャケットにコーヒーをこぼすというベストタイミングだったからそうした、となります。

まとめるとこうなります。

「(大きな目的)」→「恫喝したい」→「怒りの感情を持ち出す」

先ほどの原因論と比べると、「怒り→怒鳴る」から「怒鳴りたい→怒る」と順序が逆になっています。

なぜこう考えるのかというと、先ほども述べましたが人間は物事を主観からしか見ることができません。完全な客観なんてものはあり得ない。

とすると、先程のコーヒーの例を持ち出すと、大事なものでもモノならばいつか使えなくなりますし、それがいつかはわからない。声を荒げずとも店員は謝罪しただろうし、もしかしたらクリーニングもしてくれたのかもしれない。

もっと別の選択肢もたくさんある、ということです。

原因論が正しいのならば、誰もかれもが同じ状況で同じような反応を示さねばなりませんが、経験的にそれは正しくありません。

一張羅にコーヒーをこぼされてしまったとしても、10人いれば10人それぞれ反応の仕方が異なります。

ならば、過去に起こったことを自分の都合の良いように物語を作って、その物語に沿って行動している、その表象してきたものが怒鳴ることだと考えた方が、自然です。

人間は主観でしか物事をとらえることはできない、という命題にも合致します。

この記事の中では、ひとまず原因論ではなく目的論に立場を取ります。

読書に意味はあるのか?

ここまで来てようやく主題に戻ります。人間は主観の中からしか物事を見ることができず、価値があると感じたならそれはその人が肯定的な判断を下したことそのものであり、湧き上がる感情はすべて何かしらの目的がある。

となると、「読書って人生の役に立つんですか?」という問いは、「役に立てるも立てないも、読む人次第」となります。

…ええぇぇぇ~みたいな結論ですが、そうなります。

読書は紙なりモニタなりに写される文書を読んでいるだけです。客観的な事実は、それ以上も以下でもない。

ただ、その文章を読んでどう感じるのかは、個人によって異なります。目的論の立場から言い直すと、本を読んでどう感じたいか?が各個人によって異なります。

例えば、ある小説を読んで、「この登場人物なんなんや、人間って欲深い存在だなあ…、そういえば自分の周りにもそんな嫌な奴多いなあ…、気をつけよう」と思った人と、「この登場人物は自分のやりたいことにまっすぐでちょと憧れるなあ!自分もこうありたいなあ…」と思った人は、読んだ後が異なるのではなく、読む前の考え方が違うのです。

となると、読む人にとってどう役に立つか、どう感じるかは、すでに読む前から決めていることなので、どんな本を読もうとも結論は見えています。

なので、何をもって役に立つかどうかを決めることは個人の主観に依るものだし、まして読書が有益かどうかなんて、分かりえません。

よって、「役に立てるも立てないも、読む人次第」なのです。

酔っ払いと猫と街灯と。

いくつかの小さな反乱の後、ごつごつとした床から体をゆっくりと起こす。

自分が寝ていたことは、もう少ししてから気がついた。その前に飲みすぎたことにも気がついていた。

老人がこちらに話しかけるが、何を言っているのかわからない。なんとか唇の動きを凝視して、耳からの刺激を解釈しようとするが、音を意味あるものに仕立てるのに数秒の遅れが発生してしまう。

結局よくわからなかったが、体調を気遣ってくれているのだろう。私は揺れる視界に身体を持っていかれそうになりながらも、老人の申し出を乱暴に断った。

階段を下り、横断歩道を2回渡り、再び階段を登った。

街灯がこちらをじっと見ている。僕は彼に答えた。

「おい、なんでそんな猫背なんだ?もうちょっとシャキッとしろよ、シャキッと!社会人としてどうなんだよ!」

彼はうつむいたまま何も答えてくれない。

彼の向こう側に、月が半分だけ輝いている。彼の光が邪魔して月が窮屈そうにしている。

「なぁ、お前のせいで月がかわいそうだろう。他人のことも思いやれねぇのか?」

足がもつれ、その場に倒れこむ。うつむくと胃からさっきまで体内にあったものが込み上げてきた。

なんの突っかかりもなく、口から流れ出ていく。液体と溶けかけの固形物は、階段の脇の溝を伝って流れていった。

口からよだれが垂れているが、構わず彼に話しかける。

「なぁ、おれは時々わかんなくなるんだよなぁ。周りからお前は誰それだって言われるから、そうなんだなぁって、ガキの頃から思ってたけど、実は違うんじゃなぇかって。」

ここまで話すと、もう一度側溝に吐いた。

「おれはおれだ、間違いない。なんだって、おれがそう信じてんだからな。あいつら、おれのことはいねぇ体でぺちゃくちゃ話しかけてきやがる。お前はどうなんだよ!おい!」

「どないされたんですか?」

流線型の、細い声が聞こえた。彼ではない。

辺りを見回しても誰もいない。猫背の街灯と、階段と、側溝と、吐瀉物が全てだ。

「飲まれてますねぇ。」

声のした方を向くと、白を基調とした身体に、茶色のまだらがいくつか目立つ、縦長の瞳を持つ猫がじっとこちらを見つめていた。

「どないされたんですか?」

「おれはお前みたいな猫が大嫌いなんだぁ。えぇ。起きたいときに起きて、寝たいときに寝やがって。」

まだらの猫は臀部だけ地面につけながら座り、こちらをじっと見ながら答えた。

「なんだい、人間にしてはずいぶんと頭が悪いんだねぇ。あたしはさっきの彼に向けた一言には感心したもんだよ。さすが人間は違うって。」

「へぇ、猫がおれのことを評価してくれてたのか。」

嫌みをこめて返した。

「まぁ、好きにするといいさ。」

猫はふっと後ろを向き、音も立たない歩みで、暗闇に溶け込んでいった。

散々だ。そう思った。

口を拭い、太ももに力を込め、立ち上がる。視界の揺れはさっきより小さい。

階段を登り始めた。暗闇と身体の輪郭がぼやけてゆく。帰ったら洗い物しなきゃ。不意に帰宅したときの家事の流れが、頭の中に流れてきた。

階段を登りきり、さっきまで座り込んでいた場所を眺める。街灯に照らされそこだけ確かに存在を確認できる。自分の身体から出た吐瀉物は、もう見えない。