「コンビニ人間」と「MADMAX怒りのデス・ロード」

遅ればせながら、2016年の芥川賞受賞作「コンビニ人間」を読みました。

一気に読み終わって、とっても面白かったんですけど、

「どっかできいた(見た)ことあるなぁ〜」

という感覚が抜けず、悶々としながらアマゾンプライムでなんか暇つぶしになる映画ないかなぁと眺めて、なぜか有料の「MADMAX怒りのデス・ロード」を買って、昼間っからビール片手に見てるとハッとしました。

せや、コンビニ人間てマッドマックスやん!

…ヒマな人はお付き合いください。以下ネタバレありです。

コンビニ人間」あらすじ

コンビニ人間

コンビニ人間

ヒロイン古倉恵子は三十半ばだが、正規の就職をせずに大学時代に始めたコンビニのアルバイトを続けており、恋愛経験も皆無であった。

子供の頃から普通ではないと思われていた古倉は、周囲の人たちの真似をしたり妹の助言に従ったりすることによって常人を何とか演じ続けてきたが、加齢によりそのような生き方も限界に達しつつあった。

そんなとき、就労動機を婚活だと言った後に解雇された元バイト仲間の白羽という男と再会し、彼と奇妙な同居生活を始める。

それを「同棲」と解釈して色めきたった周囲の人たちの反応に若干は戸惑いつつも冷静に彼らを観察して、白羽との関係を便利なものと判断する。

のちに白羽の要求によりコンビニを辞め、就活を始めるが、たまたま立ち寄ったコンビニで、コンビニ店員としての自分を強く再認識し、白羽との関係を解消して、コンビニへの復職を心に誓う。

Wikipedia「コンビニ人間」より抜粋)

第155回芥川賞受賞作。分量もそんなに多くないので、通勤電車の中と昼休みに読んでも1日か2日程度で読み切れます。

ヒロインの無個性というキャラ立ちが良くて、彼女を通して見る職場の同僚や家族、途中で同棲を始める白羽のおかしさ、興味深さが際立っていて、読んだ時間以上の読みきった感がありました。

「MADMAX怒りのデス・ロード」あらすじ

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核兵器による大量殺戮戦争勃発後、生活環境が汚染され、生存者達は物資と資源を武力で奪い合い、文明社会が壊滅した世界を舞台とする。

砂漠化し荒廃したウェイストランド(荒野)で、元警官マックスは、過去に救えなかった命の幻覚と幻聴に煩わされ、狂気に侵されているのは世界なのか自身なのか曖昧になる中、生存本能にだけ突き動かされV8インターセプターを駆る。

Wikipedia「MADMAX怒りのデス・ロード」より抜粋)

マッドマックスシリーズの4作目で、前作から27年ぶり(!)となります。

本作も相変わらずのぶっ飛び具合で、ストーリーも、映像の迫力も、登場人物のキャラ立ちも、全部濃いです。

いい意味で、スゴく疲れます笑。

似ている構造

コンビニ人間」と「MADMAX怒りのデス・ロード」の二つで、共通してるなぁと思ったのは、正しさの基準って何だろう?と思わせる描写があるところです。

例えばコンビニ人間の中で、主人公の恵子が地元の友だちと会うシーンがあります。そこで、友人から恋愛したことある?と聞かれて、無いと正直に答えてしまいます。その後の友人の反応です。

「あのさ、私けっこう同性愛の友達とかもいるしさあ、理解がある方だから。今はアセクシャル?とかいうのもあるんだよねー」

 

場を取りなおすようにミホが言う。

 

「そうそう、増えてるっていうよね。若い人とか、そういうのに興味がないんだよね」

 

「カミングアウトするのも難しいってテレビで見た、それ。」

恵子は「付き合ったことがない」「今まではうまくいかなかった」しか伝えていないのですが、友人たちは自分たちの合点がいく理由を想像して作り上げていきます。

このような友人たちの反応を見て、恵子はこう思います。

性体験はないものの、自分のセクシャリティを特に意識したこともない私は、性に無頓着なだけで、特に悩んだことはなかったが、皆、私が苦しんでいることを前提に話をどんどん進めている。

 

たとえ本当にそうだとしても、皆が言うようなわかりやすい形の苦悩とは限らないのに、誰もそこまで考えようとはしない。

 

そのほうが自分たちにとってわかりやすいからそういうことにしたい、と言わんばかりだった。

ここで明らかになったなと思ったポイントは、「恵子が真だと思うこと」と「友人たちが真と思うこと」に乖離が生じていることです。

恵子は「付き合っている人が今までいたことがないこと→特段おかしいことじゃない」と思っていますが、友人たちは「付き合っている人が今までいたことがないこと→なにか特別な事情があってそうなった特殊な状況」と解釈しています。

この作品では、恵子の極端に軽薄な自我(小説ですからね、デフォルトが効いてますが)に注目しがちですが、極端に軽薄な自我を通して見つめるからこそ、現代社会(っぽいもの)の正しさの基準みたいなものが見えきます。

本作品の中では「30になったら恋愛経験もあるし結婚もしている」ということも、正しさの一つでしょうね。

一方マッドマックスは、核戦争後荒廃した世界が舞台となっているので、無茶苦茶な常識がまかり通っています。

例えば、この世界の男性は、ウォーボーイになってボスであるイモ―タン・ジョーのために派手に殉職(?)することに、大きな価値があると思っています。

また母親は、自分の子供を生かせるために、ウォーボーイになってほしいと望み、母乳が出るならそれを自らのアドバンテージとしてイモ―タン・ジョーお抱えのミルクタンクになろうとします。

単純にぶっ飛んでいる世界としてみなすこともアリだと思うのですが、大きな構造としてみなすと、イモ―タン・ジョーの支配する世界とマックスとは何を正しいとするのかの価値観が異なっています。

集団と個人の価値観の衝突

コンビニ人間」「マッドマックス 怒りのデスロード」の両作品は、主人公と彼・彼女らを取り巻く人々との価値観の相違が、大きな構造としてある、という観点で読み解いてきました。

コンビニ人間」は主人公の一人のキャラを立たせることで、「マッドマックス」は主人公の周りの環境を際立たせることで、集団と個人の対立を描いているなあと。

ここで一つ気になったのは、じゃあ、今自分が置かれている環境ってどうなんだ!?ってことです。

集団の意見と個人の意見がぶつかることは、普段生活していてもよく感じるモヤモヤです(あくまで個人的な意見です)。

会社の方針とぶつかったり、学校のルールとぶつかったり、家庭のルールとかち合ったり、…

そんなとき、自分は恵子のように見られているんですかね?

それともマックスみたいに血液タンクにされるんでしょうか?

また逆に誰かを自分の合点のいくように解釈しているんでしょうか?

無茶な状況でも「What a lovely day!!」って叫んで突っ込むんでしょうか?

…思い返してみると、なかなか怖いですね。