小説を読む楽しさ

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はじめに

私はこのブログで、読んだ小説の感想とか、読みかけの小説のメモとかを、思いつくままつらつらと書いているのですが、時々「読書ってなんか意味あんのかなあ?」なんてことを思ったりします。

妻はまったく本を読まないのですが、時々「そんな小さい字読んで面白いの?」という、超ド直球な質問を投げかけられたりもします泣。

趣味なんで、「楽しいから読んでるし、それ以上でもそれ以下でもない!」といえばそれまでなのですが、ただそれじゃあ、余りにも独りよがりだし、仮に読書会みたいな集団になったとしても、とても偏った意見の集まりに(夏目漱石のオモシロさが分からない奴はニワカ読書家だ!みたいな笑)なりかねないかなと思うのです。

小説の楽しみなんて、それこそ読む人の数だけあるだろうし、「これこそ小説を読む意義!」なんてことはナンセンスだと思うのですが、今まで小説に親しんだ思いでから、小説ってこういう風に読むと楽しいなあとか、こんな面白さがあるなあとか、思っていることをつらつら書いていこうと思います。

空白の大きさ

大抵の小説って一人称か三人称の視点で物語が展開されていくものですが、それを表現しているものは文字だけです。

ですので、当然言葉だけじゃ厳密に書ききれないことがたくさん出てきます。

ここに、書いてある言葉とかフレーズとかから、書いていないことを自分の想像力で補う面白さがあると思います。

結果同じ作品を読んでも、人によって感動したところや、逆にイライラしたところ、切なくなったり励まされたりしたところが異なってきます。

ここは作者の意図しないところで、本を手に取ることも偶然だし、読んだ人の感想も偶然の産物です。

こうして色々な偶然がたくさん折り重なって、思いもしなかったようなことがポコポコと発生していく事も、一つの面白さではないでしょうか。

空白の大きい小説として、フランツ・カフカの「変身」を例に見てみます。以下の書籍を参考としました。

とても有名な小説ですが、あらすじを紹介いたします。

主人公のグレゴール・ザムザは、朝起きるとドイツ語でいうウンゲツィーファー、生贄にできないほど穢れた動物、あるいは虫の意味するもの(以降便宜的に虫とします)になっています。

家族は虫になってしまったグレゴールに驚きショックを受けますが、なんとか虫になったことを受け入れようと、ご飯をやったり、掃除をしたり、またグレゴールが支えていた家計を何とかしようと働きに出たり、いろいろな努力を試みています。

一方グレゴールは虫になってしまったもののそこまで気落ちしておらず、天井や壁をはい回ったり楽しむ様子もうかがえます。

あるとき、家計の足しにと余った貸し出していた部屋に宿泊している客が、グレゴールの妹のバイオリンの演奏を無遠慮な態度で聞いていました。

その光景に対しグレゴールは、演奏に心動かされている自分に対して弾いて欲しいと妹を部屋に引き釣りこもうとします。

部屋から出てきたグレゴールを宿泊客が見つけ、それをきっかけにして宿泊客は出ていってしまいます。

落胆する空気の中、妹が「これがグレゴールだって思うからいけないのよ」と、グレゴールを兄としてみなくなってしまいます。

絶望的な気持ちになったグレゴールは、自分の部屋で一人静かに死んでいきます。

グレゴールが死んだ後、ザムザ一家はピクニックに出かけます。両親は妹が美しい女性に成長したと実感し、良い男性を探さねばと前向きな気持ちになりました。

と、ここで終わります。

この物語で描かれていないところは、結局カフカは何になったのか?というところです。

ウンゲツィーファーとあるものの、虫なのか獣なのかよくわかりません。ただ、グレゴールの視点からみた体の特徴は、割と細かく書いてあります。

鎧のように固い背中を下にしてあおむけに横たわっていて、頭を持ち上げてみると、腹部は弓なりにこわばってできた幾筋もの茶色い帯に分かれていて、(中略)脚は全部で何本あるのか、身体全体の寸法と比べると泣きたくなるくらい細くて、それが目の前で頼りなさそうにきらきら震えている。

(「ポケットマスターピース カフカ」P9より抜粋)

読者はこの文章を読んで、自分が思いつく最高に不快感を覚える虫を想像します。こういった書いてあることから書いてないことを想像することによって、読者は物語に没頭することができるのです。

またこの物語の最後はとても残酷であるように見えます。

虫(のようなもの)になってしまったとはいえ、今まで一家を支えてきたのはグレゴールの働きがあってこそです。

しかもグレゴールが変身してしまう前は、誰も働いていないのです。ですが最後のシーンで、家族は電車に乗ってお出かけをしてしまいます。

このことから、グレゴールが変身する前の状況も想像できます。

実は、グレゴールは人間の姿として働いているときから、家族は彼を邪魔者扱いする気持ちを内蔵していたのではないのでしょうか。

たまたま自分自身でも認識できないくらい深い心の底にあったコイツ邪魔やな!って気持ちが表面に出て来なかっただけで、グレゴールの変身という大事件を通して、文字通り表現してしまったのかもやしれません。

もし変身してしまう人がグレゴールではなく妹だったら?

グレゴールが死に至る原因となった宿泊客も、グレゴールが妹のためにバリバリ働いてお金を稼ぎまくり、来なかったかもしれません。

…なんて想像が膨らむのも、グレゴール変身前の様子が書かれていないからでしょう。

人生の例題

また小説は、人生の例題とすることもできます。

大抵の小説は、主人公は関わる人たちについて何かしらの行き違いや課題と向き合う場面があります。

そんなとき、主人公はどう思い、どんな行動に出るのか。

このような場面は人生において老若男女問わず出くわす場面だと思います。

学校で受験一色になる同級生や先生が理解できない、大学で就活が始まると急にリクルートスーツをきて髪の毛を黒にしてメモ魔になる同期とそりが合わない、会社の方針だからといって取り合わない上司とうまくいかない、結婚しても妻から邪魔者扱いされてしまう、などなど…

個人と個人、個人と集団の意見が食い違ったとき、小説を読むことで「あの時読んだこんなシーンに似ているな」とか、逆に小説を読んで、「こんなときがあったら、自分は主人公のようになれるだろうか?」と自問したりすることができます

例として、オー・ヘンリーの「賢者の贈りもの」を挙げてみます。以下の本を参考にしました。

賢者の贈りもの: O・ヘンリー傑作選I (新潮文庫)

賢者の贈りもの: O・ヘンリー傑作選I (新潮文庫)

若く貧しい夫婦がおり、妻のデラは、夫のジムが大事にしている金の懐中時計の鎖を買うために、自分のきれいな髪の毛を質に入れてしまいます。

クリスマスイブの夜、デラはジムにプレゼントを渡しますが、ジムも大事な金の懐中時計を売って、デラが欲しがっていた櫛のセットを買ってきていました。

一見すると、お互いの大事なものをすれ違いで失ってしまうのですが、物語の最後の語りで、このような贈り物をする者こそ賢者だ、として閉じられています。

私も結婚して間もないのですが、「賢者の贈りもの」は、「愛するということ」とはどういうことなのだろうか?という問いに対して、一つの素晴らしい例となっています。

「愛する」という抽象的な概念に対して、非常に具体的な一例を、この作品では表現していると私は感じました。

おわりに

この記事では、小説を読むことの楽しさについて、特に私自身が感じている「空白を埋める」ことと、「人生の例題とする」ことについて紹介しました。

小説の楽しみ方は、読む人の数だけあると思います。自分なりの楽しみ方がぼんやりとカタチになると、オリジナルの楽しみ方を存分に突き詰めて、楽しみまくればいいと思います。

小説って何が面白いの?って方は、今回紹介した楽しみ方でトライしてもらえると、うれしいです。

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました!( ´Д`)ノ~バイバイ