読書って人生の役に立つんですか?

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はじめに

金曜日の昼休み、明日から休日ということに既に仕事に手がつかなくなっているところに、こんなニュースが。

そういえばちょっと前に「小説を読む楽しさ」みたいなタイトルでブログ書いたなぁと。

inouek.hatenablog.jp

人生の役に立つんですか?と問う人に対して、何かしらのメリットを訴えることは、決して無意味じゃないし、ある程度の効果も見込めると思います。

でも、「読書って人生の役に立つんですか?」って問う人は、本当にこのお題通りの疑問を、ただ疑問として思っているのか?答える側も、問う側の人が聞きたいことを的確に答えられているのか?に関して、考えたいなぁと思いました。

価値とは何か

役に立つのか?という問いなんで、まず価値があることについて考えたいと思います。

以前、こんなブログを書きました。

inouek.hatenablog.jp

くまのプーさん エチケットブック」から、価値とは何か?について考えました。

この議論を今回も踏襲します。

前提として、人間は主観でしか物事を捉えることしかできず、カントの言うところの物自体は分からない、をここでは正とします。

すると、「〇〇ってイイよね!(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎」とか「△△は有意義だと思う(・ω・)ノ」とかは、客観性を持たず、あくまで私個人の意見だけど、というのが文の最初にカッコ書きでついてくることになります。

つまり、価値があることは、肯定的な判断そのものであるとなり、主観的な判断次第で「いいなあ」と思ってたことが次の瞬間「なんだこれ?」となってしまうことも、往々にしてある得る話、ということになります。

原因論と目的論

またここで「原因論と目的論」についてもこの議論の中で使いたいと思います。

原因論と目的論の話は、少し前にベストセラーにもなった「嫌われる勇気」にもアドラー心理学における重要なテーマとして挙げられています。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

原因論とは、Aという事象が起きた原因を、過去に起きた事BやCという事象に求めるもので、「AはBやCがあったからこそ起こったんだ!」となります。

嫌われる勇気の中で例を挙げていたので引用しましょう。

ある青年がお店でコーヒーを飲んでいたところ、店員がコーヒーをこぼしてしまいました。こぼれたコーヒーは、青年の一張羅のジャケットにかかってしまいました。青年は普段はおとなしい性格のようでしたが、この時は以下来で我を忘れて店員を大声で怒鳴りつけました。

まとめるとこうなります。

「店員がコーヒーをこぼし、一張羅のジャケットが汚れてしまった」→「怒りの感情が湧いた」→「店員を怒鳴りつけた」

ごく自然な流れに見えます。自分の大事なものを汚されたり壊されたりすると、怒りの感情が湧いてくる人が大半でしょう。

では目的論ではどう捉えるのでしょうか?

目的論はAという事象が起こったとき、その目的を重要視し、過去に起こったBやCには関心がありません。Aという事象は自分自身が起こしたものだとし、なぜAを起こしたのか、その目的を自分に問います。

原因論の例を引用すると、大事なものが汚されたから怒りの感情が湧いて店員を怒鳴りつけたのではなく、怒鳴りたいから怒りの感情を使い、店員がジャケットにコーヒーをこぼすというベストタイミングだったからそうした、となります。

まとめるとこうなります。

「(大きな目的)」→「恫喝したい」→「怒りの感情を持ち出す」

先ほどの原因論と比べると、「怒り→怒鳴る」から「怒鳴りたい→怒る」と順序が逆になっています。

なぜこう考えるのかというと、先ほども述べましたが人間は物事を主観からしか見ることができません。完全な客観なんてものはあり得ない。

とすると、先程のコーヒーの例を持ち出すと、大事なものでもモノならばいつか使えなくなりますし、それがいつかはわからない。声を荒げずとも店員は謝罪しただろうし、もしかしたらクリーニングもしてくれたのかもしれない。

もっと別の選択肢もたくさんある、ということです。

原因論が正しいのならば、誰もかれもが同じ状況で同じような反応を示さねばなりませんが、経験的にそれは正しくありません。

一張羅にコーヒーをこぼされてしまったとしても、10人いれば10人それぞれ反応の仕方が異なります。

ならば、過去に起こったことを自分の都合の良いように物語を作って、その物語に沿って行動している、その表象してきたものが怒鳴ることだと考えた方が、自然です。

人間は主観でしか物事をとらえることはできない、という命題にも合致します。

この記事の中では、ひとまず原因論ではなく目的論に立場を取ります。

読書に意味はあるのか?

ここまで来てようやく主題に戻ります。人間は主観の中からしか物事を見ることができず、価値があると感じたならそれはその人が肯定的な判断を下したことそのものであり、湧き上がる感情はすべて何かしらの目的がある。

となると、「読書って人生の役に立つんですか?」という問いは、「役に立てるも立てないも、読む人次第」となります。

…ええぇぇぇ~みたいな結論ですが、そうなります。

読書は紙なりモニタなりに写される文書を読んでいるだけです。客観的な事実は、それ以上も以下でもない。

ただ、その文章を読んでどう感じるのかは、個人によって異なります。目的論の立場から言い直すと、本を読んでどう感じたいか?が各個人によって異なります。

例えば、ある小説を読んで、「この登場人物なんなんや、人間って欲深い存在だなあ…、そういえば自分の周りにもそんな嫌な奴多いなあ…、気をつけよう」と思った人と、「この登場人物は自分のやりたいことにまっすぐでちょと憧れるなあ!自分もこうありたいなあ…」と思った人は、読んだ後が異なるのではなく、読む前の考え方が違うのです。

となると、読む人にとってどう役に立つか、どう感じるかは、すでに読む前から決めていることなので、どんな本を読もうとも結論は見えています。

なので、何をもって役に立つかどうかを決めることは個人の主観に依るものだし、まして読書が有益かどうかなんて、分かりえません。

よって、「役に立てるも立てないも、読む人次第」なのです。