役所にて。

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太陽が人間を刺す季節、私は区役所への道ながら止めどない汗を下着に吸わせて歩いている。

さっき地下鉄であった男はどうなっただろう。

尻を触られたと思って、腕を掴み大声をあげた。電車の乗客が一斉にこちらを向く様は、ほのかに私を紅潮させた。

不快感と恐怖が一瞬のうちに怒りと万能感に移り変わり、まるで電車の中の王であった。

私が声を出せば周りがそれに共鳴し、より大きな音を出す。

男がホームで駅員に連れていかれ、事務所の中でうなだれているその様は、まさに屈服した異教徒のようで、この上ない優越感と征服感で、私の中は満ち満ちていた。

しかし地下から地上に出ると、太陽光が真上から余りに直線な光を落とし、建物や行き交う自動車、道路や電信柱までもその光に包まれていた。

私の意志にかかわらず、汗が噴き出してくる。ほとんど風のない晴天の大通り、申し訳程度に植えられている木の影が唯一光から逃れられる場所だったが、すでに蝉たちが先に占領している。

区役所に私は向かっている。人生で最も退屈な途中道の一つだろう。

大通りから2本路地に入り、小学校の前を通り、交差点を左に曲がり、ひときわ角ばった建物が見えてくる。

周りの民家や雑居ビルに比べると、一部ガラス張りになったその壁は、透明すぎる。

自動ドアが二つ開く。必ず二段階になっており、真ん中にはこの晴天には似つかない傘立てが影を薄くして配置されていた。

平日の午前中、世間様が一番大人しく、各人が自らの作業に勤しんでいる時間帯なのだからか、人はまばらですぐに受付に行ける。

「あっ、すいません、住民票を頂きたいのですが。」

「はい、住民票の写しですね。ご本人様を確認できるものは、お持ちでしょうか?」

するりと流れるような、摩擦のない口調でやんわりと訂正された。バッグの中から、免許証を取り出す。

「これでお願いします。」

「はい、かしこまりました。では、こちらの用紙に必要事項を記入して、提出して頂けますか?」

頼まれて断ったらどうなるのだろうなど、つまらない想像が一瞬よぎったが、口角だけあげた愛想笑いでその想像を消し、用紙を受け取り、記入用のテーブルに向かった。

明らかに安いとわかるボールペンを手に取り、用紙に住所や氏名を書き込む。

右手の痺れのせいで、まだ上手く字を書けないが、なんとか全て記入した。

「書き終わりました。」

「ありがとうございます。そちらのカウンターでお渡しさせて頂きますので、少々お待ちください。」

受け取り専用の窓口と向かい合うように配置された長椅子に腰をかける。足を組むと隣の男性の視線ので、スカートからのぞく足がじりっと焼けた。

それにしても役所の中はがらんとしており、私と隣の男性、受付カウンターで噛み合わない会話を相手のせいにして、怒鳴りながらも笑みがこぼれている老婆の3人ほどしかいない。

しかしカウンターの向こう側は忙しそうに職員が働いている。プリンターは休む間も無く稼働し、吐き出される紙はありとあらゆる人間が回収していく。

ある紙がプリンターから出力されたと思いきや、女性職員がすぐさまそれを回収し、所定の箱に投入する。

しばらくすると別の男性職員が先ほどの紙を箱から回収し、ささっと何かペンで書き込み別の人(おそらく上司であろう)に伺いを立てている。

私はその間静かな時間を過ごした。平和な世界というのは、こうして作られるのだろう。

「タナカさん、タナカユウさん。」

名前が呼ばれたので、受け取り窓口まで向かう。相変わらず隣の男性の視線は私から外れなかった。

「こちら、住民票の写しですね。300円になります。」

小銭を渡し、封筒に入れられた住民票を受け取る。

「どうもありがとう。」

「ありがとうございました。」

さっと封筒をカバンの中に入れ、入ってきた二重の自動ドアに向かい、外に出た。

相変わらず外は太陽の光で溢れており、その暑さは影にいても空気を通して肌に伝わる。

頭がクラクラする。視界も揺れる。

胸元のボタンを一つ外し、身体の表面に新鮮な空気を送り込む。外に出た途端に滲み出した汗が気化し、身体から熱が奪われていく。

私はもと来た道とは反対方向の、建物の裏側に回り込んだ。

そこは影になっており、またガラス張りでもなく無機質なコンクリートの壁がただ立っている。

民家やビルもなく、ちょつとした通路にはなっているものの、裏山がすぐ迫っている。

地面と壁の接点に、雑草がちらほらと生えていた。

周囲を見渡し、誰もいないこと、誰もこないこと、誰も見ていないことを確認した。

スカートを捲り上げ、パンツを下ろす。

雑草に向かって放尿した。こういうときは男に生まれて良かったと思う。

声が高いせいで、格好次第で男にも女にも見られる。この特徴のせいでずいぶん悩んだが、今ではこの上ない才能に思える。

私の尿を受けて、雑草が雫を光らせている。

目の前のコンクリート壁がどろりと溶けていくような気がした。全身に弱い電流が走り、いっそう肌が敏感になってゆく。

全て出し切り、身体が震える。さっと服装を整え、また歩き出した。

帰りは少し買い物をして、商店街を通って別の駅から帰ろう。できるだけ日陰を歩こう。

小学校の交差点で、来た方向とは違う方向に進んだ。歩道の幅の狭さがやたらと気になった。