ハンドクリーム

ビルの額縁から少しだけ顔をのぞかせてみせた冬の太陽が、枯れかかった街路樹を裏側から照らし、まだ緑色をした葉がついてることを教えてくれる。

茶色から緑へのグラデーションが一つ一つの葉にあり、遠巻きに見るとモザイク画になる。

その絵を見ているのはわたしだけで、わたしの前を歩く人、右側に並列している人、左側をすれ違う人、後ろで歩調を合わせる人は、地面のタイル模様の方が好みらしい。

灰色はあまり趣味じゃないなと思いながらも、同じ絵を見ることができることは、羨ましい。

雑踏をかき分け、マフラーにこもる湿気を携えて、自分の勤め先のあるビルに入った。

社員証をゲートに優しく添えると、勢いよく侵入防止の扉が開く。

廊下を超え、雑多なエレベーターホールでもみくちゃにされ、13階でおりまーす!と言って降りて、自席に着く。

まだフロアは人がまばらで、柔らかくなった日の光が、過剰に整頓された蛍光灯の代わりにまどから差し込んでいる。

わたしはマフラーをほどいて、コートをかけて、カバンを机の下に置き、パソコンのスイッチを入れて、引き出しを開けた。

シトラスの香りがするハンドクリームを取り出す。

キャップをくるくるっと回して外し、お腹をぐっと押すと、白くてかてかしたクリームが手のひらにのる。

それを両手の手のひらで伸ばし、指、指の間、手の甲とその範囲を広げていく。

クリームと同じようにわたしの手も光沢をたたえ、優しくシトラスの香りがわたしの鼻腔の奥の奥まで刺激する。

クリームはものの数分で肌になじみ、脂ぎった感触はなく、艶もほどほどにしっとりしていた。

わたしはインスタントコーヒーの粉とマグカップを両手に持ち、給湯室に向かった。

マグカップにステンレスのスプーンでコーヒの粉を一杯入れて、お湯を注ぐ。立ち上る湯気とコーヒーの香りがメガネを曇らせたが、給湯室に入ってきたのは同期の真奈美であることはすぐにわかった。

梨花、おはよう〜」

「おはよう、真奈美。今日早いんだね。」

「流石に3日連続で遅刻しちゃったからなぁ。」

あくびが言葉の説得力を奪っていった。

「なんかいい匂いする。」

「ハンドクリームじゃない?昨日から使ってるの。」

どれどれと真奈美はわたしの手を手に取り、鼻に近づけた。

「これシトラス?」

「そう、この季節は必須だよね。洗い物しちゃうとすぐカサカサになっちゃう。」

その言葉を途中まで聞いた真奈美は、口角をあげて、にやっとし始めていた。わたしが言い終わる頃には、さもわたしが大切な宝物かのようなうるうるした瞳を強調していた。

梨花、ゴム手袋よ。素手でお皿洗いしたら、肌荒れすごくない?」

「まあ、ねえ。すごいかなぁ?」

「ときどき粉吹いてる梨花の手、あたし見たことあるよ。」

「うそー!ショック……」

「手袋しなくちゃ。ね?」

真奈美との会話もほどほどに、わたしは自席に座った。熱いマグカップに唇を添えて、コーヒをすする。

二口目をすすった瞬間、艶のあるわたしの指からマグカップがすり抜け、机の上に落ちた。

真っ黒だったコーヒーは、机の上で茶色に薄まり、近くにあったメモ用紙を染めた。

しばらく机の上で広がったコーヒーを眺めた。とても綺麗な茶色だった。